合理的配慮について記事にしていますが、その中で車いすユーザーについてニュースがあったため事例として挙げています。
偶然ですが、2例が車いすユーザーの話になっています。
この件について、わがままと綴っています。
ふと思ったので綴りたいと思います。
この件の車いすユーザーの育ってきた環境が、周りの健常者が健常者としての気持ちや立場をしっかりと伝えなかったことが、『車いすユーザーは、支援されて当たり前だから自由に生きて』とおそらく話しながら育てたことが、誤解を生みわがままとして育ててしまったのだなと感じました。
どういうことなのか?
この事で、重要なのは個人の車いすユーザーのことに対しての、個人的見解です。
正直、この2件に関しては、車いすユーザーではなく、あくまでそのユーザー個人に対する合理的配慮をベースにして考えると、わがままということであると考えます。
これによって、他の車いすユーザーが嫌な思いをするのは悲しいことだと思います。
一部のユーザーの悪態が、すべてのユーザーに影響してしまうことがないようにしてほしいと思います。
今回の事だけではありません。
人は『その立場』にならなければ、理解することは難しい。
これは、障がい者であろと健常者であろうと同じ事。
けれど、道具を用いれば健常者は障がい者の疑似体験をすることができる。
では、障がい者は?
これは、合理的配慮をする上でとても大切なことです。
特に、イオンシネマの件においては、『相手のことを考えることができていない』最たる問題だと思います。
これは、障がい者だけではなくその取り巻く環境にも影響がある話です。
イオンシネマの件では、これまでの環境で『支援されるのが当たり前』と思っていなければ、このような流れにはなりえないことです。
今まで、個人的にお会いしてきた車いすユーザーの方々にこの件のような人とは、会ったことがありませんでした。
つまり、そのような『されるのが当たり前』という環境で育ってきたから、されるのが当たり前でされないのは晒すという行動になるのだと思います。
これは、他の事例ですが『車いすユーザーに対しての知識・理解があって当たり前』で、それがない人を晒すというのも同じことです。
これは、そのような環境で育ってしまった車いすユーザーの方が可哀そうだなと感じました。
何より、そのことでほかの車いすユーザーの方が同一の考えをしていると思われてしまっている状況もあることがさらに一層辛いことに感じます。
自分がどこまでできて、どこから配慮してもらえれば、皆と同じようにできるのかを自分で・周りが把握して、周囲に伝えることができる『力』が必要です。
私は、車いすユーザーなのに○○がしてもらえなかった・・・
知識が、理解がないなんてありえない!
と、考えるのは自由です。
でも、この事をむやみに晒すのはまた、別の話ではないでしょうか?
ダイバーシティと言われるのであれば、相手に理解がない状況も考えておかなければなりません。
個人的な話ですが、私も活動していることにつながりますが、多様性という面からいろいろな考えをする人がいるのは当たり前だと思っています。
障がい者に対して、否定的な人もいます。
ましてやグレーゾーンは放置されている問題です。だからこそ、知ってもらうためにブログを始めました。そして、支援する活動をしています。
車いすユーザーが、ほかの車いすユーザーを下げてしまうような発信は、結局は自分の首を絞めている状況になってしまうのではなかと危惧します。
大切なのは、合理的配慮を求める場合、周囲の健常者がしっかりと健常者としてこういうことをされると不快に感じる・大変であるということをしっかり本人に伝えることで合理的配慮の正しい求め方を伝えることが何よりも大切なことだと思います。
結局、辛い思いをするのは特性をもった人たちなのですから・・・
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